横山美術館概要

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横山美術館

 名古屋はかつて、海外へと輸出される陶磁器生産の一大拠点でした。特に現在の名古屋市東区には、瀬戸などの産地に近いという好立地から、多くの陶磁器工場が立ち並んでいました。各産地から運び込まれた陶磁器に絵付を施す、上絵付業が発展するなかで、名古屋絵付と呼ばれる豪華で華やかな作風は、海外でも人気を博しました。

 公益財団法人横山美術館は、明治・大正時代に制作された輸出陶磁器を、里帰り品を中心に展示します。名古屋周辺で制作された輸出陶磁器、日本初の洋風陶磁器であるオールドノリタケ、まとまった作品群を目にする機会が少ない隅田焼など、息をのむほど緻密で大胆な作品の数々を、ぜひご覧ください。

 当館は、平成29年10月1日に開館いたしました。

明治時代以降の輸出陶磁器について

日本陶磁を海外へ

日本陶磁を海外へ 日本陶磁を海外へ

 明治政府は、開国後に欧米との圧倒的な力の差を感じ、国力増強のため殖産興業・輸出振興政策を推し進めた。その中で陶磁器に代表される工芸品は、重要な輸出品として大きな役割を求められていく。
 日本の工芸品は、文久2(1862)年のロンドン万国博覧会において、初めてまとまった形で紹介される。イギリスの駐日公使ラザフォード・オールコックが日本で収集した陶磁器などを、一堂に展示したものであった。

日本陶磁を海外へ

 その後、慶応3(1867)年のパリ万国博覧会に幕府、薩摩藩、佐賀藩が個別に参加し、両藩から多くの陶磁器が出品され、好評を博している。幕末からすでに欧米で高い評価を得ていた日本の陶磁器は、花鳥図や武者絵など、日本的な題材が写実的に表現された豪奢で精緻な作風で、西洋におけるジャポニスムの流行の一端をなしていた。
 明治時代になると、欧米での需要を見込んで陶磁器の輸出は加速する。輸出陶磁器は、外貨獲得の主力商品として国家の命運を担うこととなった。

日本陶磁を海外へ

窯業地の発展

窯業地の発展 窯業地の発展

 政府の推進する殖産興業・輸出振興政策は、陶磁器の各産地に変化をもたらした。瀬戸や九谷、京都、有田などの伝統的な諸窯は、それまでの生産体制を基盤としながら、新しい技術を導入するなどして発展を遂げた。
 一方、明治期になり新たな時代の要求に応える、新しい窯業地も現れる。横浜では、初代宮川香山(みやがわこうざん)が輸出陶磁器制作のために窯を開き、眞葛焼(まくずやき)と名付けて作陶を始めた。また東京の隅田川沿いでは、初代井上良斎(いのうえりょうさい)が築窯して隅田焼を始める。窯業の伝統が無かった土地にも新しい産地が生まれ、輸出陶磁器の生産は大いに活気づいた。

上絵付業の確立

上絵付業の確立

 明治6(1873)年にオーストリアのウィーンで開催された万国博覧会は、日本が国を挙げて参加した最初の万国博覧会である。日本の文化、技術を世界に示すため、政府自ら出品物を収集し、あるいは作らせるなど、その力の入れようは相当なものであった。
 ウィーン万国博覧会の出品作品を制作するため、政府は博覧会事務局附属磁器製造所(東京錦窯(きんがま))を特設したが、博覧会終了後に閉鎖される。製造所の御用掛であった河原徳立(かわはらのりたつ)がこれを受け継ぎ、瓢池園(ひょうちえん)が設立された。瓢池園は、陶磁器の絵付をいかに絵画に近づけるかを追及し、瀬戸や有田などの産地から取り寄せた素地に上絵付を施して出荷するという上絵付業を成立させる。いわゆる東京絵付の始まりである。

上絵付業の確立

万国博覧会参加の成功

万国博覧会参加の成功 万国博覧会参加の成功

 ウィーン万国博覧会では、瀬戸、美濃、京都、有田、薩摩、九谷などから200点以上の陶磁器が出品され、有田の作品が名誉状を受賞するなど大成功を収めた。この参加の成功を受け、明治9(1876)年開催のフィラデルフィア万国博覧会では、ヨーロッパに続きアメリカで日本の工芸を発表する。次いで明治11(1878)年のパリ万国博覧会においても、陶磁器を日本の重要な輸出品として売り込みを図り、ともに大きな成果を得た。こうして、日本の陶磁器が大量に欧米諸国に輸出されていくことになる。

内国勧業博覧会

内国勧業博覧会

 海外の博覧会で日本の技術を披露する一方、政府は国内でも同様に国家事業として博覧会を開催した。明治10(1877)年、東京上野にて第一回内国勧業博覧会が開かれる。この博覧会は、欧米からの新しい技術の導入や、貿易の振興を目的としており、全国から集められた産物や技術の展示は、国内産業の競争、発展を促した。明治36(1903)年の第5回まで続き、東京、京都、大阪で行われた内国勧業博覧会は、明治時代の窯業にも大きな影響を与えた。

内国勧業博覧会

輸出陶磁器の衰退

輸出陶磁器の衰退 輸出陶磁器の衰退

 輸出一辺倒であった陶磁器の生産も、変化の兆しを迎える。明治15(1882)年頃から始まった世界的な不況により輸出が滞り、輸出工芸品を扱うためにできた会社、例えば起立工商会社(きりゅうこうしょうがいしゃ)、盈進社(えいしんしゃ)、七宝会社などが解散していった。輸出不振になったのは、ジャポニスムの衰退や技巧主義的な作品への飽きなどと言われているが、輸出していた陶磁器の多くが装飾品で、日常の必需品ではなかったことによる販路の限界も理由であった。

新しい流れ-芸術家としての陶芸家誕生-

新しい流れ -芸術家としての陶芸家誕生-

 明治26(1893)年、アメリカのシカゴにおいて開催されたシカゴ・コロンブス万国博覧会で、日本は欧米と肩を並べるために美術品、美術工芸品に力を入れた出品がなされたが、日本が望んでいた結果は得られなかった。明治33(1900)年のパリ万国博覧会では、アール・ヌーヴォー様式が大流行する中、日本は依然として東洋的な絵付の作品を出品しており、その意匠(図案)に対し、厳しい評価が下される。この状況は日本国内で深刻に受け止められた。こうした中で、新たに図案研究の流れが生まれ、釉薬の化学的研究など様々な技術も改良される。また、実業教育機関の設立が全国に広がり、後の日本窯業界を牽引する人材育成も進められた。
 この頃から、会社や商人の制作依頼を請け負ってきた職工とは別に、個人の名で制作する者が現れる。明治政府による顕彰制度である帝室技藝員(ていしつぎげいいん)制度も、芸術家として活動する体制を整えることにつながった。

新しい流れ -芸術家としての陶芸家誕生-

再評価される輸出陶磁器

再評価される輸出陶磁器 再評価される輸出陶磁器

 明治初期に産業としての工芸から発展した日本の近代陶磁は、明治後期において、そこに芸術品としての面も加わる。そして日本各地の陶磁器産地とともに、大正・昭和初期にかけて多様性を示しながら複雑に展開していった。とりわけ、明治初期に最盛期を迎える輸出陶磁器は世界に衝撃を与え、近代陶磁史において重要な位置を占める。輸出された陶磁器は、今日、国内外の美術館やコレクターのもとに収集され、近年関心が高まるとともに、多くのことが解明されつつある。

参考文献:『万国博覧会と近代陶芸の黎明』 愛知県陶磁資料館、京都国立近代美術館 2000年

『明治・大正時代の日本陶磁—産業と工芸美術—』 明治・大正時代の日本陶磁展実行委員会 2012年

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